興行寺の歴史

当寺は、本願寺第五世綽如上人の三男、周覚上人を開基とし、応永13年(1406)の創立である。

 

当時、越前門徒の中心として、特に聡明な周覚上人を下されるよう、本願寺へ門未代表から願うところがあった。六世功如上人は、この門未の要請に応えて、真宗興隆の為に、舎弟周覚上人を当国につかわされたのである。初めは志比の庄大谷(現在の永平寺町諏訪間大谷)が京都大谷と同名であるのを慕い、此地に滞在したが、応永18年荒川門徒の請を受けて荒川(現在の藤巻長山)に移り、華蔵閣と号した。

 

 さて、周覚上人は各地に飛錫して専ら布教につとめたので、当時流行していた異安心は斥けられ、宗祖の御教は年と共に興隆して、越前に於ける本願寺教団の基礎は固められた。又、遠近各地より、その徳を慕い、参詣群集し、為に、荒川の地は門前町を形成したといわれる。康正元年、64歳にして遷化した。生前、六男五女あり、三男蓮実が当寺二代住職となったが、他は広く北陸の各地に雄飛してそれぞれの本願寺教団の重要な拠点となった。

 

 

 二世蓮実法師の後はその長男蓮助が相続して三代となったが、折しも、蓮如上人吉崎御滞在中、上人の第六女如空姫を室として迎えた。当寺は吉崎に田屋を構え、子弟は親しく上人の薫育をを受けたが、上人また、しばしば当寺に来錫され、当時の人々を化導された。蓮助法師亦よく上人の大業を補佐した。

 

 

 このとき上人より興行寺の号を賜った。蓮助法師についで長男蓮堯が四代を相続したが、これ亦、蓮如上人の外孫、伯中将資氏王女を室として迎えた。五代蓮恵法師の時、長山より現在の地に移転したが、一方、加賀若原にも坊舎を構え、その教線は広く加賀、能登地方にまで及んだ。六代蓮祐の時、本願寺と信長との戦、石山戦争が起きたが、本願寺の為に兵を集め、兵糧を送り、又将となって本願寺護持の為に奮戦した。昭和16年、顕如上人三百五十回忌に当り本願寺よりその功を表彰された。

浄土真宗辞典 より抜粋

興行寺

本願寺派の寺院。福井県吉田郡永平寺町藤巻。荒川興行寺という。綽如(しゃくにょ)の子 周覚の創建と伝える。『反故裏書(ほごのうらがき)』によると、綽如の子 周覚は、越前国荒川(現在の福井県吉田郡永平寺町)の門徒の要請によりこの地に住した。はじめ越前国大谷(福井県吉田郡永平寺町)にいたが、のちに越前国荒川に移って一寺を建立したと伝える。功如(ぎょうにょ)から華蔵閣の号を与えられたという。その後、興行寺と称した。北陸における浄土真宗の有力寺院であった。

法物

北国御形見 薄絹蓮如上人

当寺に御安置する蓮如上人画像は薄絹蓮如上人御影と称し、蓮如上人の真筆であります。上人は申すまでもなく、本願寺八代の門主で浄土真宗中興の祖と申上げ、又宗祖親鸞上人の御再来と仰がれています。

  上人は文明年間、吉崎に御滞在になりましたが、当寺へも度々御来鍚になり親しく御教化遊ばされました。その時頂いた御真筆び六字名号は今も寺に伝えられて います。さて当時三代住職蓮助法師は蓮如上人とはまたいとこの間柄にありますが、上人の御息女、如空姫を奥方として迎え、宗門繁昌の為に力を尽くしまし た。

 上人御年八十五歳の春、御病となり、山科本願寺に御養生の折、如空姫は住職ともども、御見舞いに参上されました。上人にはご 対面をいたくお喜びになると共に、越前御同行の信心は如何かとおたずねになり、まず自身が信をとりて、御同行に信をすすめよとねんごろにおさとし遊ばさ れ、今は生きて逢うことかたき故に、之を末代までの北陸門徒の形見にせよと仰せられ、御形見は当寺へ御移りになりましたが、之を伝えきいた上人を御慕いす る人々は、我も我もと御影に参拝し、あと絶えなかったということであります。遂に御命日を中日にして一週間(今は三日)御忌法要を勤修することになり、近 郷一帯では蓮如まつりと称し、仕事を休み、こぞってお参りする風習となりました。

 さて、三国に住む当寺門徒で、極悪非道の日暮ら しを続け、人のお念仏お参りするのをも妨げする漁師がありましたが、母親がそれを悲しみ心の中にいつも蓮如様、息子を御化導下さいませと念じておりまし た。。或日のこと漁師が海へ出ると一筋の光明が眼前にさして漁をすることが出来ません。あまりの奇異の思いに光を辿って上ると遂に当寺の門前に達し、御影 より放ち給う光明と知れたのです。さすが非道の漁師も忽に頭を下げ、さては母が日頃さとしたように自分を救わんが為の方便慈悲の御光であったかと涙乍らに 懺悔したのでした。

 寺ではあまりの尊さに御影の上に薄絹を以て掩い奉ったところ、日ならずして薄絹を通して上にお姿が現れ給うたので、それより薄絹蓮如上人御影と称し奉るようになりました。